パスカルの思想~”考える葦”とは何なのか?~

みなさんこんにちは。

ブレーズ・パスカルという哲学者を知っていますか?

”人間は考える葦である”という名言を残したあの人です。記事の画像の植物も葦です。

数学や自然哲学でも才能を発揮しています。

そんなパスカルがどんなことを考えていたのかを知り、なかなか興味深かったので紹介いたします。

パスカルの思考(パンセ)

パスカルの考えていたことを記した書物に”パンセ”があります。

”パンセ”は、若くして亡くなったパスカルが生前ノートやメモに書いていたことを彼の死後整理したものです。

その内容は、メモ書きといった感じで、

恋愛の原因と結果。

クレオパトラ。

こんな感じに断片的にパスカルの考えが並んでいる箇所なんかもあり、

すらすらと読むことがなかなか難しいです。しかし、

人間というのは概して、自分の頭で見つけた理由のほうが、他人の頭の中で発見された理由よりも、深く納得するものだ。

このように読んでて「なるほどなー」と唸るような文章もたくさんあるので読み飛ばすことができません。いきなりイイことをブッ込んできたりします。

なのでパスカルのパンセを読んで、特に納得した箇所を抜き出しました。

そして、”人間は考える葦である”という言葉の意味も説明していきたいと思います。

人間の不幸は”部屋の中にじっとしていられないこと”

パスカルの思考の大きなテーマとして、「気晴らし」があります。

人間の不幸は、ただ一つのこと、一つの部屋に落ち着いてじっとしていられないことからやってくる。(中略)

社交や賭けごとのような気晴らしを求めるのも、ひたすらわが家に安住していられないからだ。

パスカル パンセ

つまり人間は何もしないという状態に耐えられないから気晴らしをするということです。

そしてなぜ何もしない状態に耐えられないのかというと、生まれながらの不幸である死というもの、つまり自分自身についてのみじめさについて考えざるをえなくなるからだそうです。

この部分は読んでいて強く共感しました。さらにパスカルはこう続けます。

人はゲームとしての狩りのときに獲物を求めているのではない、余興の賭けごとで金銭を求めているわけでもない。

ただ、自分がそれについて我を忘れて、今を忘れて熱中できる何かを求めているだけなのだと。

だから狩りをしている人に野兎をポンとあげたら、その人は喜びはしないし、賭けごとの代わりにお金をあげても満足はしないと言っているのです。

これを見てすごいことを考えるなあと思いました。

モノではなく行為自体に意味があるというのは今まで考えたこともありませんでした。

パスカルのいう「気晴らし」には仕事や恋愛も含まれています。

とにかく自分の周りがつねに騒がしくなくてはならない。

そうでなければ死ぬこと、自分自身について考えざるをえなくなる。そしてみじめになる。人間とはそういう生き物なのだと。

これを見た人の中にはこの「気晴らし」の概念を他の人に教えたくなったという人もいるかもしれません。

まさに今これをブログに書いている私がまさにそうです。

しかしパスカルは先回りをしてこういった人たちを”一番の愚か者”と言っています(酷い)。

この誰かに教えるという行為自体もまた「気晴らし」なのです。

自分はその「気晴らし」から解放された気でいるがまったく抜け出せていないのが愚かなのだと。

ここまでくるとスゲぇとしかいいようがありません。

”考える”ことの偉大さと惨めさ

この「気晴らし」の概念を知ることが、”考える葦”を理解する足がかりになるのです。

”人間は考える葦である”……私はこの文は知っていても意味はよく分かっていませんでした。

「あ~考える葦ね、なるほど。考えるって大事だよね」ぐらいの感じです。

でもそんな浅い言葉ではもちろんありません。

ではパスカルは具体的にどういったことを言っているのでしょうか?

とりあえずその文を見てみましょう。以下がその全文になります。

人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もか弱いもの、しかしそれは考える葦だ。

人間を押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水だけで人間を殺すには十分だ。

しかし宇宙に押しつぶされようとも、人間は自分を殺すものよりさらに貴い。人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優位にあることを知っているのだから。宇宙はそんなことは知らない。

こうして私たちの尊厳の根拠はすべて考えることのうちにある。私たちの頼みの綱はそこにあり、空間と時間のうちにはない。空間も時間も、私たちが満たすことはできないのだから。

だからよく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある。

パスカル パンセ

いかがでしたか?

全文を見るとやっぱりよく分からなくなります。最後の考えることの大事さぐらいしか入ってきません。

しかしここで疑問が起きます。

先ほど「気晴らし」のところで考えるということは人間をみじめにするとパスカルが言っていたのに、ここではよく考えることが大事だと言っています。

どういうことなんだパスカルさん。

でも大丈夫、パスカルさんはきちんとこの答えを示してくれています。

人間の偉大さはきわめて明白なので、そのみじめさからさえも、偉大さを引き出すことができる。

なぜなら動物にとって自然なことも、それが人間にあっては、みじめさと呼ばれるのだから。

そこから私たちは理解する。

人間の本性は今や動物の本性と等しいが、かつて人間にはもっと優れた固有の本性があり、人間はそこから転落したのだと。

パスカル パンセ

ここでパスカルが言っていることは、

考えることで自分のみじめさを知り、それと比較することで自分の偉大さをも自覚することができるのだということです。

口が一つしかないと言って不幸に思う人はいないが、目が一つしかないとしたら、不幸に思わずにはいられないともたとえています。

マイナスの状態を知ることで、プラスの状態を確認することができるのです。

これを踏まえたうえで、もう一度考える葦について考えてみましょう。

ところでパスカルはこの名言を、もっと分かりやすい言い方にしてくれているのはご存知でしょうか。

このカッコイイ方の言葉が何かと取り沙汰されますが、これを簡単に言ったバージョンがパンセの中にあります。

それがこの文です。

人間の偉大さは、自分がみじめであることを自覚しているところにある。
 
一本の立ち木は自分がみじめだとは思わない。
 
だから自分がみじめだと思うのはみじめなことだが、自分がみじめだと自覚するのは偉大なことだ。

パスカル パンセ

われわれ「考える葦」と「一本の立ち木」を比べてみましょう。

立ち木というのは葦に比べてずっと立派な存在です。このままではわれわれは立ち木に劣ってしまいます。

しかし立ち木は自分がみじめだとは思っていません。

あるがままにそびえ立っています。そこにはプラスもマイナスもありません。ゼロのままです。

その一方でわれわれは「考えることのできる葦」です。

考えることによって人は自分がみじめな存在だと自覚します。

しかしみじめな自分の存在を自覚することで、より偉大な自分を確認することができるようになります。

考えることでマイナスの状態を知ることができ、そこからプラスの状態により良くなろうとすることができる。

その点において、われわれ「考える葦」は「一本の立ち木」よりも優れているのです。

「気晴らし」に耽り考えることをしなければ、みじめさを自覚することはない。

しかし偉大さも自覚できないゼロの状態のままだ。

それは宇宙であり、一本の立ち木だ。

人は考えることにより自らのみじめさを自覚すると同時に偉大さをも知ることができる葦だ。

というのが「考える葦」でパスカルが言いたいことなのです。

まとめ

パンセの中には、他にも日常生活で役に立ちそうな名言がたくさん入っています。

しかし、パスカルは熱心なキリスト教徒であったことから、神の重要性や宗教の必要性について書かれたものも多くあります。

パスカルは神への信仰によってのみ人間は救われると考えていたのです。

抽象的で分かりづらい断片的な言葉などもちりばめられているので、原書のすべてを理解するのは難しいのではないのかなーと思います。

そんなパンセのおいしいところだけを集めた本も出版されているので、まずはそちらを読んでから原書に挑戦してみるのもいいのではないかと思います。

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